古典を読む_【老子】_第1章
老子と言えば、諸子百家にして、道教の祖である。
とは言え、実際に読んだことのある日本人は少ない。
実際に中身は哲学的な話であり、そのままでは使えないからであろう。
論語を読む人間も、引退して世間の喧騒を離れた時に読むような扱いである。
もちろん、道教系の教団も世界にはあるが日本では少数派である。
仏教と競合するからだろう。
大陸では長いこと、仏教と抗争を続けてきたが、ほとんど混ざってしまっている。
実は日本にも意外と関係があり、神道の元ネタというのはほとんど公然の秘密である。
日本人はよく神道、儒教、仏教の三教を軸にしていると言われるが、中国だとこれが、道教、儒教、仏教になる。
要するに神道と対して変わらないのである。
空海の三教指帰もやはり道教、儒教、仏教の三教である。
西洋の一神教が世界を席巻している中(そして行き詰っている中)、東洋の思想を鑑みることは、日本人にとって、そして世界にとって重要なことであると認識する。
いつものとおり、独断と偏見で老子を解読していく予定である。
なお、原文や書き下し文は、
老子を参考にした。
第一章
道可道、非常道。
名可名、非常名。
無名、天地之始。
有名、萬物之母。
故常無欲、以觀其妙、
常有欲、以觀其徼。
此兩者、
同出而異名、同謂之玄。
玄之又玄、衆妙之門。
道の道とすべきは、常の道に非(あら)ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無し、天地の始め。
名有り、万物の母。
故に 常に無欲にして、以て其の妙(みょう)を観(み)、
常に有欲にして、以て其の徼(きょう)を観る。
此の両者は、
同じく出でて名を異にし、同じく之を玄(げん)と謂う。
玄の又玄、衆妙の門。
分かりやすい意訳
「俺の名を呼ぶなッ!」
一言で言えば上記の意訳のとおりである。
これに関して、この記事を見ているレベルの人間ならまずピンとくるはずである。
聖書の神、ヤハウェである。
出エジプト記で神の名を問われた時に、
「我は在りて在るものなり」
と答えている。
要するに、答えてないわけである。
神の名を直接呼ぶのは恐れ多いため、ヤハウェというのは仮名である。
十戒にも神の名をみだりに呼ぶなと書いてある。
日本人が実名を呼ぶのを忌避して官職名で呼ぶのと同じことである。
(例、天皇陛下など)
この道教の聖典も同じである。
道という究極存在は名前を付けられないと言うのである。
要するに下々の者がみだりに名を呼ぶと威厳が下がるのである。
外国人が昭和天皇のことを「ヒロヒト」などと呼ぶのと同じことだ。
そしてこれは同時に、
「人間の認識の及ばない存在」
としての意味もある。
人間は全動物の中でトップに位置する進化した生物である。
その存在は知恵で持って他の生物を征服し自然を加工し、地球上でほしいままに
振舞っている。
当然、全ての存在に対して認識のメスを入れている。
名前と言うのは、昔から「呪」であるとされていたように、対象の存在を、
縛る呪術である。
それは人間の認識の対象に収まることを意味する。
名前が付けられないと言うのは人間の認識の対象を越えているということである。
老荘思想や仏教などの神秘主義は人間の認識を賛歌しない
近代西洋文明の理性の力と真逆の方向である。
西洋魔術のカバラもそうだが、人間とう生物の認識を超越したところに究極があると
する。
ここではそれが道である。
カオス・シナリオ
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