五輪で日本が忙しい。
隣国の失態を笑った因果か、我が国でも不手際が表面化してきているが、どちらにせよ、五輪は景気回復のドリンク剤として、期待されている。
すでにテレビ時代は過ぎて、五輪自体も「スポーツなんか見て何が楽しいんだ?」という若者の意見も散見される中、特需利権に預かれる御身分の方々は久々の景気の良い話に舞い上がっている。
トリクルダウンは無い!という政権与党のキーマンが堂々と公共の電波で、断言する中で、どれだけの景気回復効果があるのか筆者には不明であるものの、我が国に招致出来る実力があるだけでも景気の良い話と言えるかもしれない。
筆者は五輪と言えば、宮本武蔵の著作が思い浮かぶような無作法者ではあるが、
武蔵の五輪とは、元々仏教で言う、地水火風空の五大である。
世界を構成する5つのエレメントのことである。
世界も人間も猫も杓子も一切合切、この五大で成り立っていない物はない。
天地一切を包括する要素のことである。
が、まあそれは別にどうでもよい。
五輪は一体何なのか?
ググってみると、どうやら五大陸のことらしい。
五輪により平和がどうこうの趣旨らしい。
なぜスポーツ大会をやると、世界が良くなるのかさっぱりわからないが、
お互いの顔見せイベントが無いと、相互理解が深まらずに戦争が起きるからであろう(適当な意見)。
さて、趣旨はわかったが、なぜこんなものが作られたのか?
平和主義の意図は有るとは思うが、古代オリンピックを模した意味は何なのであろうか?
戦争のエネルギーをスポーツで発散させようという、3S政策といえば邪推だが、少なくとも、
戦争するよりはマシではある。
ただし、愚民化政策にならなければではあるが。
GHQの行った3S政策は、スポーツ、スクリーン、セックスである。
愚民を作り、お上に逆らえなくするのが目的である。
世界共通の一大イベントを開催しその報道を一手に握れば、
世界の目をそこに向けさせることが出来る。
即ち、大衆の意識を一つに集めることが出来る。
では、そこで何をするかである。
企業の広告などを打ってもだからどうしたという話である。
イマイチ、五輪の正体がつかめない。
五輪そのものは一般には何て言われているか?
我々大衆にとってはいつのまにか出来ていて、四年に一回やるスポーツイベントである。
そこに出る人間は各スポーツの日本を代表するエリートであり、
金メダルでも取ろうものなら人間国宝である。
現代日本において、出自を問わない一発逆転の出世物語でもある。
しかし、実際においてはスポーツで金メダルと取るには凄まじい才能か、
幼少の頃からの教育環境である。
もしくはその両方いる。
所詮は才能と家柄である。
努力だけで取れる物ではない。
そう考えると、五輪とは一部の選ばれたエリート・天才を称えるイベントなのではないか?
世界平和の美名の元にナチスばりの優生学の論理があるのではないか?
生まれつきのエリートは素晴らしい
生まれつきの凡人には手が届かない人間は素晴らしい
世界には優れた人間と劣った人間が居る
これが五輪の正体ではないだろうか?
まあ、実際は世界各国の相互協力による平和親善が五輪の真相なのだろうが、
このような考えも可能ではある。
要するに、五輪はナチス思想の祭典であると。
ナチスドイツとは五輪の発生は関係ないだろうが、どうせ当時の白人は人種差別の塊である。
可能性は無くは無い。
しかし、このような結論を得た所でどうなるものでもない。
元々、選ばれたエリートしか幸せになれない世界では大多数の敗者が出る。
敗北に意味を見出すのは宗教であり、アヘンである。
無理やり個人に応用するとしたら、所詮、ニッチ戦略くらいしか無い。
ナンバーワンにもオンリーワンにもなれない我々個人は、ニッチな分野で、
金メダルをとるしかないのである。
極論を言えば、世界で自分しか参加していない分野で金メダルをとるのである。
これを言ったもの勝ちという。
組織の中でもこれを使うとしたら、やはり他がやっていないアピール方法でしかない。
これはマーケティングの分野であろう。
我が国に応用するとどうだろうか?
やはり、他国にない我が国独自のものでアピールするしかない。
それは歴史のある文化的なものでなくてよい。
例えば、大会の後にゴミを回収すると言ったレベルでよいのだ。
無論、これは深い文化的背景に根源が認められるものかも知れないが。