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みんなの「宗教と社会」ブログ


神は何故人間の形をしているか?

2016/02/10 00:07
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多神教の日本ですら、神は人の形をしている。
キツネや龍などがいるではないか?
と言われるが、当たり前のことだが、それらは眷属であって、神そのものの姿は人の形をしている。

よく霊能者は神は人の形をしていないと言うが、それでは、絵にならないので、人の形をとることになる。

およそ、この地球上で、知能が高ければ高いほど複雑な脳を持ち、多足から、四足になり、二本足の人間となる。
逆を言えば、人間の思考の枠組みには人間以上の生物は見たことがなく、そして見えない神という「人間よりも高等な生物」は、自分たちが知る限り最高の知性体である人間の姿をとるしか無いということなのであろう。

人間は見えない存在、ひいては理解不能な存在を可視化せずにはいられない。
でないと、自分たちが操作(コントロール)出来ないからだ。
日本人は自然を操作対象の存在ではないと考えるが、周知の通り一神教では所詮は被造物なため操作の対象である。
これは、必然的に、逆の論理がこう成り立つ。

可視化対象な物は、操作可能であると。
神という不可視な物が可視化すれば、操作可能になり、その瞬間、神の神聖さは地に堕ちることになろう。

可視化出来るということは、同時にその対象の情報を把握出来るということである。
一例を上げれば、形が若い男であれば、美女をあてがえば良い。というように。
可視化出来ずに対象の存在の情報が見えなければ見えないほど、操作の方法が無くなり、こちらかのアクセスが不可能になる。

このような宗教では、当然、神へのアクセスや、神に近づく神秘主義は、異端であり、弾圧の対象でもある。
よって、顕教しか表に出ない。
密教や神秘主義が表に出ているのは多神教国家の特徴である。

とは言え、このような操作不可能な不可視の対象である一神教ですら、
神と人間との中間に、教会や国家という「中抜き機関」を挟まずにはいられなかった。
これが克服出来たのは、イエスのような天才か、近代になってから以後である。







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− タイトルなし −

2014/04/09 00:56


世の中をつらつら眺めて見るに、どうしても生まれの差というのは歴然である。
明らかに家庭環境以上のレベルの差異で、存在する物がある。
ではそれは何か?

人間に才能の差異があるとしたらそれは一体何であろうか?
単純に、遺伝子の差だとしたらなぜその遺伝子で生まれてきたのか?
全く、意味もない偶然という結論が単純明快でもしかしたら真理なのかもしれないが、人間の感情としてはやはりそこに何らかの意図的な物を感じるのである。

人間でさえも、牛馬を品種改良し、米などの植物ですら改良してきたのである。
ナチスの人種改良も含めて、人間がやってきた経緯はそのままデフォルトの人類にも応用が考えられる。

すなわち、なぜ人間は一人ひとり運命が違うのか?
違うだけならともかく、明らかに幸不幸の総量が比較にならない。
誰が何の意図があって、このような差異が生じているのか?

古代の人間はこの不合理に対して先祖と前世の理由を考案した。
先祖の方は意外に現代の遺伝子学につながる考えであるが、それだけでは、なぜこの先祖
の子孫に生まれたかが解決されない。
先祖の報いと言っても本人に罪は無いのだから当然、疑問は残る。
結局、論理的には後者の前世の概念を持ち込まざるを得ない。
これならばついでに先祖の方も解決できるのである。
なぜこの遺伝子の先祖の子孫に生まれたかは、前世でその先祖だったからだ、という理屈が付けられるからだ。

この前世という観念。
これは同時に来世という観念も同時に引き出される。
即ち、あの世である。
この証明不可能な観念は、このブログで何度も指摘がある通り、人類の宗教史上にとって、
革命的なアイディアである。
人間の死後、存在が消え去るのにも関わらず、生きている人間の記憶と社会間通念として、
存在するこの観念は、先ほどの人間の差異の問題を解消した。
なぜ人には幸不幸の差異があるのか?
この問題に回答を与えたのである。

リベラルな人道家が、輪廻転生は差別思想だと激怒するのも、これが理由である。
生まれによる身分や社会上の格差の肯定を意味してしまうからである。
だが、世界が偶発的に存在するという考えは唯物論である。
宗教上の教義を全て放棄すれば必然的に、世界に意味は無くなる。
人間の生きる意味も当然無くなる。
人生に意味は無い。
当然こうなる。
前世と来世の輪廻転生(死後だけが存在する一神教も同様)の概念は、
人生に意味を与える。
日本人になじみの深い「天命」がわかりやすい例である。

日本人は通常、輪廻転生を信じている。
が、同時に、リベラルの人たちの「差別思想を肯定するのか?」
という指摘にはNOと答える。
この矛盾の中で生きている。
そして、「社会的差別になるような思想はNGである、身分や格差に肯定をするのはまずい。だが、天命とか使命とかはあるよな」
くらいの思想に落ち着く。
だが、生まれによる差別は肯定しないものの、天罰や因果応報は信じているのである。
悪人が死んだら、そら見たことかと喝采するのが人間の心情である。

結局のところ人間という哺乳類の当然変異種は、意味など無く存在しているという「事実」
に耐えることは出来ないのである。
それが極まった時に人間は絶望の果てに逃避するか、自殺する。
そしてある者は自分で構築した人生の意味を決める。
全ての外部の権威が崩壊すれば最後に残るのは自分のみである。
自分の人生は自分で決める。
これが、人間に残された裸の自分である。
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ローマ人も大好きだった!うなぎの蒲焼き

2014/04/07 23:51


うなぎの蒲焼きは日本人の甘ったるい照り焼き味の最高峰に位置する代物である。
うなぎの養殖技術が確立していない以上、高い金を出してうなぎの蒲焼きを購入するしか無いのが実情である。

そのうなぎだが、当然、人間の考えることはいつの時代も同じなので日本人と同じように食べる連中も存在する。
上記画像のように、ローマ時代から食べられていた伝統的な調理法である。
そして、この事例は人間の営みが太古から変わらないことを意味する。

天地自然は春夏秋冬の4つのサイクルに支配されている。
全ての生命や存在は、生まれ、育ち、衰え、滅びる。
一切の存在はこの理法から逃れることは出来ない。
故に、絶対的な支配原理であり、真の世界の支配者である。

この支配から抜け出したものは解脱した者と言われる。
全てのサイクルからなどではなく、あるカテゴリのみ脱出したものでも、世間からは一目置かれることになる。
例えば、収入のラットレースから抜け出た者はすでに一般人ではない。
不労所得で生活出来るようなシステムを作ったものは収入のカテゴリに関しては解脱したと言えよう。

ではどのようにループを抜け出るのか?
それはループを自覚することである。
釈迦は、因果の理法により、無明と執着から苦しみが発生しているループを見た。
鮭が永遠に海から川に登るループを繰り返すように、人間は行動様式が複雑になったのみ差異があるだけである。
親の世代も子供の世代もやっていることは変わりがない。
同じような悩みや同じような喜びをして同じように生まれて同じように死ぬ。
それが六道輪廻のループである。





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業「人のせいにするな!」

2014/04/06 23:49



運命・宿命・業は言葉は違えど意味は同じである。
生まれによって本人の意思に関係なく予め定められている非社会的な領域でのスケジュールである。

身分制のあった時代には生まれによる階級の差は確実にあった。
現代日本ですらそれは実在する以上、生まれた家による差はもちろんある。

だが、そのような社会的な領域での話ではなく、病気や怪我、頭の良し悪し、突発的なアクシデントなど、現代科学でさえ解明の出来ないことが多々人生には存在する。

厳密に言えば、原因そのものは、現代科学や未来においては解明可能である。
例えば病気ならば遺伝子上や環境に起因するものであれなんであれ、解明や治療は可能であろう。
問題は、「なぜそれが自分の身に起きたか」である。

当たり前だが、世の中の人間は誰もが同じ人生をたどるわけではない。
個性の違いと言えば聞こえはいいが、明らかな幸不幸の差が生じている。
これを個人は運命と呼び、スレ画のような使用法では、人間がデフォルトで犯さざるを得ない罪を業と読んでいるが、どちらも同じことでデフォルトで個人に課せられた人生スケジュールである。

この考えには現代人は反発するであろう。
運命や業など存在しない!と。
当然である。
身分制があってよいわけはない。
人間は生まれながらにして平等である。
今はまだ資本の違いや生まれ出ずる家によって、人生のルートは大きく違っているが、
それは社会システムの問題であり、いずれは人類は解決する。
遺伝子上の能力差もいずれは科学進歩によって到達するであろう、と。

上記のような考えが現代人の良識ある思想である。
その考えには全くもって正しい。
だが、これに異議を唱える立場の人間もまた存在する。

人間は制限された存在であると。
例えば人間は不老不死は可能であろうか?
無論、科学の進歩によっては可能であろう。
しかしそれはもはや人間であろうか?
科学以前の生物としての人間は当然、寿命で100年程度で死ぬ。
人類が生まれて、万年単位の月日が経てきたが、当然例外はない。

仮に未来において不老不死が可能だとしよう。
ならば
「未来に至るまでの人類はなぜ不老不死になれずに100年足らずで皆死んでいったのか?」
それが運命である。

全知全能の神は、人類という制限のある存在が造ったシロモノである。
それは恐らく、人類が到達しうる未来であろう。
その時まで、人類には「業」という制限の呪いに囚われる。



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なぜ神は世界を救わないのか?

2014/03/26 01:26


いい加減、一神教世界では語りつくされたテーマだとは思うが、ちょっと考慮してみよう。
世界を創り給える大いなる神がいるとしよう。
ならばなぜ世界をほったらかしにしているのか?
旧約を見ると頻繁に干渉している神だが新約になるとすねかじり息子のイエス以降はなしのつぶてである。
そもそも聖書を普通に読むかぎりではとても世界の人民が飢えようが虐殺されようが一ミリたりとも同情するような慈悲深い神でもなさそうだが、別に聖書の神に限らずとも天地創造の神がいるならなぜ世界を救わないのか?

ここは、神義論の問題として、延々と話のタネになっていた問題である。
曰く、神は人間に自由を与えた。
曰く、今の神は邪悪の神であり本来の神は別のところにいる(封印されている)
などである。
後者のグノーシス系の思想は近代に日本に入ってきて神道系のカルトに伝わった。
大本教などがわかりやすいであろう。

そもそも論だが、なぜこんな天地創造の神などを人類は考え出したのか?
世界が狭くなって帝国が出来、世界地図が完成し地球という存在が認識してきたころであろう。
世界が無限だったら天地創造の神などは生まれない。
世界が有限だからこそ創造者を考慮する精神的余裕が生まれたと言えよう。
人間が有限の世界、すなわち自然を切り開いて克服し、支配するという文明の進化が、自分自身の姿を投影して世界そのものを支配している神を創造した。
古代中国では天であろう。
それは完全で完璧で永遠で唯一の非被造物である。
ついでに善で美で真である。

そしてこれこそがなぜ神が人類を救わないかの答えである。
所詮、天地創造の神は人間の自分の姿の投影である。
自分たちが自然を操作しているからこそ、神という存在が自分たちを操作していると推測している。
ただの自分のフィルターを通して神という存在を定義しているだけである。
神は別にそんな存在ではないだけのことである。
そもそも人間ですら、自然に対して自分勝手にしているのに、自分たちより上位の存在が人間に対して慈悲を持って扱うわけが無い。
人間がカビやバイキンを駆除するのと同じである。
上位の存在が慈悲に溢れていると考えるのは理にあっていない。
万物の霊長たる人類は、動物と何が違うのか?
植物の方が悪事をしないだけマシではないか?
こういうと、悪の世界の中でする善が光り輝く価値が在るとか言い出す輩が多いが、逆を言えば、そんな希少なパーセンテージの価値しかない人類はいばれる存在でもなかろう。

さらにこうは考えられないか?
人間が神を作り出したなら、自然こそが人類を作ったのだと。
何らかの自然にとっての意図があり人類は作り出された。
人類は、地球環境における何らかの存在価値を期待された。
無論、神と同じく出来損ないの創造物なため、神における被害と同様に人間による被害がある。
自然が
「じゃあもっといい存在を作ろうか。古いバージョンは廃棄な」
とする時が人類の終わりであろう。
人類としては、願わくばその時まで100万年くらいの試用期間をモラトリアムを頂きたい。



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方向の無い努力は徒労と同じ

2013/08/05 01:34


努力の方向性が無いものは徒労である。
これは合理的な思考としては当然のことだ。
びんの蓋をあけようとして逆に回してみてもそのエネルギーは無駄である。
力学的に正しい方向にエネルギーが向いてなければ無意味な行動である。

だが、ここでいう無意味とは何であろうか?
この宇宙に無意味なことなどあるのであろうか?
古代ギリシャのソフィストは万物の尺度は人間であるという相対主義を唱えた。
人間の視点から見て役に立たないことは無駄である。
そのような結論が導き出せるが、逆を言えば、人間の視点でなければ無駄でない可能性もある。

では、それは何か?
努力という行為そのものが価値があるのか?
根性のバロメータとして存在しうるのであろうか?
だが上記の考えは人間的考えであろう。
宇宙の視点から見れば、なんらかの別の意味があるのではないか?
もしくは意味があるという考え自体が人間的な考えではないだろうか?
この宇宙自体、ひいては人間自体に意味はなく、ただの因果が生起しているだけ
という考えもある。
意味というのは所詮、人間社会における人間的尺度によって生起しているだけとも言える。
仏教的、科学的考えからするとその可能性がある。

だが、仏教は宗教だが、別の宗教からすれば努力というのは何かしら意味がある。
それは苦行であったり、カルマの清算だったりする。
また、そこまで小難しく考えなくても、努力によって筋力精神力が鍛えられたと認知しなおせばよい。
これも人間的尺度の一つである。

ここまでまとまりがなく述べてはいるが、人間的尺度とはそもそも何か?
社会的な因果の他に単体での尺度があるのではないか?
すなわち、努力が意味があるとする個人的な生起のシステムである。
人間は努力という観念無しには生きられない。
それを必要とする存在ではないのか?
もしくはそれが必要とする洗脳を受けているのではないか?
人生は苦であるという仏教のドグマは、努力という存在が人間の存在を構成していることを意味しているのではないか?
前者の人間のデフォルトであれば、それは何か?
楽園から追放された人間が苦労をしなければ生存できなくなった原罪とでもいうのか?
人生の輪廻は苦であるから存在の必要が無い解脱に至ればよいという仏教的思考が正しいというのか?

洗脳であった場合を考えてみよう。
努力が必要というのは人間の本来のレーゾンデートル(存在意義)ではなく、
社会的環境の合意から来る産物であると。
人間が共同で厳しい自然環境の中で生存していくにあたって、努力しないものに
食わせる食い扶持は存在しない。
少なくとも奴隷には努力はさせないと支配システムが上手くいかない。
日本国憲法には勤労の義務があるが、元々憲法は国家の抑止が狙いであるため、
個人への義務ではない。
プロテスタントが資本主義の元であるとするマックスヴェーバーの説は、
勤労が神聖なものであるとのプロテスタントの予定説が資本主義を築いて、
現代の西洋の成功を構築したとの意見がある。
逆説的に言えば近代に至って作り上げられた考えだといえよう。
社会主義国家では、勤労は神聖であり強制的な義務であるそうだ。

最後に医学的な話だが、とどのつまり、種を残すという人間の遺伝子的な行動は、
人間の努力を必要とする。
セックスに至る過程や子孫を残すために養う過程など努力がいる。
必然的に外的との闘争も然りである。
種の保存という観念が努力の肯定を促す。
とすれば、宗教で努力の否定の観念があるのは当然といえよう。
努力とは性の肯定であり、自我の存在の肯定である。
それらを否定して現世から離脱しようとする宗教システムとは相容れない。
だが、宗教において修行や苦行など努力を必要とするのは本来の宗教とは離れているのではないか?
苦に満ちた現世を離れることと苦行をすることの矛盾は何か?
ロケットが地球の引力を離脱するにあたり、強力な火気の爆発力を必要とするように、
離脱までは努力が必要ということだろうか?







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輪廻転生はなぜ現代社会で廃れたか?

2013/07/28 22:56




輪廻転生のシステムは古代からあり、輪廻転生が信仰されているタイではばんばんビルからダイブして次の転生に期待しているらしい。
現代人としては、輪廻転生の話というのは、身分制度是正のための差別論補強思想だというのがインテリの発想であろう。
しかし、そもそも論として、これが何で人類に出たのか考察する必要がある。

一神教では基本的に輪廻転生論はタブーである。
一神教化される前の社会ではギリシャやエジプトなどあったが、一神教に多神教が駆逐されるに従ってなくなっている。
別に一神教が身分制度を無くす人権思想を持っていたとは考えにくいので、一神教のシステムが多神教と違って輪廻転生を否定する因子を持っていたと考えるのが妥当である。
それは何か?

一神教の特性として反自然的思想がある。
砂漠で生まれた宗教だからというわけでもないが、自然より上位にある神を想定して構築された宗教である。
自然=宇宙を作った唯一絶対の神は自然の法則に左右されない。
輪廻転生というのは春夏秋冬、生老病死の自然のサイクルである。永遠に螺旋するシステムである。
神とその被造物である特別な地位にある人間が自然のサイクルにあるというのは一神教にとって認めたく無いシステムなのではないだろうか?
世界そのものすら一直線に進化し、週末に向かう思想が一神教である。

一神教の自然否定。
これが一神教が輪廻転生を認めない理由ではないだろうか?






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自分がしてもらいたいことを他人にもしてあげなさいってほんと?

2013/07/06 22:55


聖書にも出ている言葉である。
論語にも、自分が嫌なことは他人にもしないという似た意味の言葉がある。

だが、そもそも論として、自分の好きなこと嫌なことというのは万人共通のものなのだろうか?
有る程度は共通するにしても、一定以上には一致しないはずである。
例えば、アイドルのお宝グッズなどファンにとっては宝でも、一般日本人にとってはゴミであろう。
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ありがとうは本当に効果があるのか?其の2

2013/06/11 00:05



前回
http://sekaikenjin.at.webry.info/201304/article_13.html
ありがとうが世間に布教されている実態を書いたが、なぜ今ありがとうが、流行っているのか?
また誰が何のために流行らせているのか?

単純に考えて、ありがとうとは現状肯定の言葉である。
つまり今自分が受けている環境や境遇をポジティブに考えているという証明だ。
同時に、外部の環境に限らず、自分の内面で満足しているという証明である。

日本的な思考として外部を改革せずに精神論で自分を改造しようとする思考は、戦前から存在する。
いい面としては自己責任として、絶えず自分を克己する作用があり、
悪い面としては、現状の社会システムに反抗しない非近代的な思考と言える。
日本の悠久の伝統である皇室というコアなテーマにも関連する。

恐らく、自然に対して反抗しないアニミズム的な多神教的思考と、自己改革の仏教精神が作用しているのだろう。
こうした精神は上記の如くいい面と悪い面が存在する。
逆によく比較される欧米やユダヤ人的思考にも長所と短所があるのはいうまでもない。
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資本主義は宗教

2013/05/22 23:05
資本主義は民主主義と並んで今の地球上における支配思想なので、
いつも非難の的になる。

特に、その絶対性?から言われるのが、タイトルである。

左翼の人たちからの突っ込みはもちろん、通貨や信用という目に見えないものを媒介にしているために、宗教との関連を指摘される。
お金とは、まぼろしではないのか?
という言い方は世間でもよく聞かれるせりふである。

これを拡大すれば、家族や国や法律と言った文系のシステムは全部宗教である。

人は宗教無しには生きられない存在である。



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2013/04/26 00:34
ありがとうは本当に効果があるのか?其の1
ありがとうは本当に効果があるのか?其の1 ここ10年くらいで、どうもありがとう教が流行っている。 つまり、どんな時も、ありがとうと感謝の言葉を口にすれば、運は上向くという話である。 ...続きを見る

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2013/04/16 23:46

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