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流されるままの人生--慣性の法則をやはり正しい

2016/03/16 23:54
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以前も、慣性の法則は人間の行動にも当てはまる為、初動が大事である。
そんな記事を書いたが、やはり、慣性の法則は正しい法則であり、人間の真理を尽くしてやまないこと真理の宝庫である。

結局のところ、人間は惰性の産物であり、自らが考えて意思を持っている人間は貴種である。
大多数の人間は環境からの影響を受けて、惰性のままに人生を慣性の法則のままに進む。

そうするとやはり「初動」のトリガーが重要になる。
崖っぷちに進む慣性を幸福に向かう慣性にベクトルを変えれば良いのである。
俗な言葉で言えば良い慣習を持つようにするのである。
しかし、人間は得てして良い慣習ほどやろうとはしない。

ゼロから1にするのが一番難しい。
100万円から1000万円にするのは用意だが、ゼロから100万円にするのが一番難しいのである。
火は一度起こせば拡大は容易だが、火を着火するのに、道具が無いと多くの人間は着火すら出来ないであろう。

この着火をいかにして、なし得るか?
このシステムを自分にあったやりかたで構築出来るものが、勝利を得ることになる。


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ゼロの効用

2016/03/09 23:59
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ゼロはインド人の発明した叡智の中でも屈指の存在である。
およそ、他の文化圏が、有を追求していった中で、無であるゼロという逆方向へと進み、有と無で、洋の東西の存在意義の分割を成し遂げた。

およそ、文明とはこのような発明であるべきである。
日本には文化はあるが、文明はない。
この言葉から脱却するのはいつの日なのだろうか?
我々もゼロを発見したインド人のように、文明というものを創造し得ることが可能なのであろうか?
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どうすることもできない問題

2016/03/09 00:15
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世の中にはどうすることも出来ない問題という物が確実に存在する。
例えば、日本の地質学的な構造というものがそれだ。

政治が悪いとか経済が悪いという人間に起因するものだったらどうとでもなる。
ところが、日本列島のプレートがどうたらこうたらという問題はもうどうしようもない。

あえて言えば宿命、運命というものである。

人間が100年間くらいしか寿命がないというのもそれで、もちろん科学が進めばどうにかなる問題かもしれないが、少なくともその未来までの人類の万単位の年月の天文学的な人間たちにはどうすることも出来なかった問題であった。

あと数年以内、早ければ今日にも、次の大震災は起きるだろう。
その場所が、「たまたま」原発が無い場所であった。
人が万単位で死んだけど、まあ復興すればいいよね?逆に復興特需が起きて契機的には良かったよね?という「幸福な」オチだったら別に良い。

ところが、日本中に張り巡らされている原発に直撃したらどうするか?

答えはどうにもならない。である。

福島のようにたまたま、綱渡り状態で持ちこたえられた。
それはそれで「日本」という国家の運であろう。
もちろん、全国の日本国民の善男善女の陰徳のおかげかもしれない。
しかし、その次は?
次が持ちこたえられても、その次は?さらにその次は?
これは地球が消滅するまで続くのである。

結論から言えば、要するに、日本という国はすでに「詰んでいる」。
この地震列島に、原発を張り巡らされた地点で詰んでいるのである。

無論、それは日本国の地政学上、仕方の無かったことかもしれない。
核装備が必要だったのだろうし、石油に代わるエネルギーが欲しかったのかも知れない。
科学の進歩によって原発のリスクを低下させる技術に期待を持っていたのかもしれない。

しかし、その賭けは失敗した。
日本はギャンブルに負けたのである。
支払いのチップは、一億の国民の生命財産と日本国の主権である。

次に「その時」が来たら、その時、我々の考える「日本国」は存在しないであろう。
元々、主権の無い敗戦国であるが、建前としての主権すら剥奪される。
それが国連の単一統治の政権か、連合国による分割統治かは状況次第である。

想定されるシナリオは、一部の脱出可能な層以外の一億の日本人は悲惨な生活を送るということと、この日本列島が、世界の核廃棄物のゴミ捨て場になるということである。

願わくば、多くの日本人に幸いあらんことを。
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神は何故人間の形をしているか?

2016/02/10 00:07
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多神教の日本ですら、神は人の形をしている。
キツネや龍などがいるではないか?
と言われるが、当たり前のことだが、それらは眷属であって、神そのものの姿は人の形をしている。

よく霊能者は神は人の形をしていないと言うが、それでは、絵にならないので、人の形をとることになる。

およそ、この地球上で、知能が高ければ高いほど複雑な脳を持ち、多足から、四足になり、二本足の人間となる。
逆を言えば、人間の思考の枠組みには人間以上の生物は見たことがなく、そして見えない神という「人間よりも高等な生物」は、自分たちが知る限り最高の知性体である人間の姿をとるしか無いということなのであろう。

人間は見えない存在、ひいては理解不能な存在を可視化せずにはいられない。
でないと、自分たちが操作(コントロール)出来ないからだ。
日本人は自然を操作対象の存在ではないと考えるが、周知の通り一神教では所詮は被造物なため操作の対象である。
これは、必然的に、逆の論理がこう成り立つ。

可視化対象な物は、操作可能であると。
神という不可視な物が可視化すれば、操作可能になり、その瞬間、神の神聖さは地に堕ちることになろう。

可視化出来るということは、同時にその対象の情報を把握出来るということである。
一例を上げれば、形が若い男であれば、美女をあてがえば良い。というように。
可視化出来ずに対象の存在の情報が見えなければ見えないほど、操作の方法が無くなり、こちらかのアクセスが不可能になる。

このような宗教では、当然、神へのアクセスや、神に近づく神秘主義は、異端であり、弾圧の対象でもある。
よって、顕教しか表に出ない。
密教や神秘主義が表に出ているのは多神教国家の特徴である。

とは言え、このような操作不可能な不可視の対象である一神教ですら、
神と人間との中間に、教会や国家という「中抜き機関」を挟まずにはいられなかった。
これが克服出来たのは、イエスのような天才か、近代になってから以後である。







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五輪

2016/01/28 00:54
五輪で日本が忙しい。
隣国の失態を笑った因果か、我が国でも不手際が表面化してきているが、どちらにせよ、五輪は景気回復のドリンク剤として、期待されている。

すでにテレビ時代は過ぎて、五輪自体も「スポーツなんか見て何が楽しいんだ?」という若者の意見も散見される中、特需利権に預かれる御身分の方々は久々の景気の良い話に舞い上がっている。

トリクルダウンは無い!という政権与党のキーマンが堂々と公共の電波で、断言する中で、どれだけの景気回復効果があるのか筆者には不明であるものの、我が国に招致出来る実力があるだけでも景気の良い話と言えるかもしれない。

筆者は五輪と言えば、宮本武蔵の著作が思い浮かぶような無作法者ではあるが、
武蔵の五輪とは、元々仏教で言う、地水火風空の五大である。
世界を構成する5つのエレメントのことである。
世界も人間も猫も杓子も一切合切、この五大で成り立っていない物はない。
天地一切を包括する要素のことである。
が、まあそれは別にどうでもよい。

五輪は一体何なのか?
ググってみると、どうやら五大陸のことらしい。
五輪により平和がどうこうの趣旨らしい。
なぜスポーツ大会をやると、世界が良くなるのかさっぱりわからないが、
お互いの顔見せイベントが無いと、相互理解が深まらずに戦争が起きるからであろう(適当な意見)。
さて、趣旨はわかったが、なぜこんなものが作られたのか?
平和主義の意図は有るとは思うが、古代オリンピックを模した意味は何なのであろうか?
戦争のエネルギーをスポーツで発散させようという、3S政策といえば邪推だが、少なくとも、
戦争するよりはマシではある。
ただし、愚民化政策にならなければではあるが。
GHQの行った3S政策は、スポーツ、スクリーン、セックスである。
愚民を作り、お上に逆らえなくするのが目的である。
世界共通の一大イベントを開催しその報道を一手に握れば、
世界の目をそこに向けさせることが出来る。
即ち、大衆の意識を一つに集めることが出来る。
では、そこで何をするかである。
企業の広告などを打ってもだからどうしたという話である。
イマイチ、五輪の正体がつかめない。

五輪そのものは一般には何て言われているか?
我々大衆にとってはいつのまにか出来ていて、四年に一回やるスポーツイベントである。
そこに出る人間は各スポーツの日本を代表するエリートであり、
金メダルでも取ろうものなら人間国宝である。
現代日本において、出自を問わない一発逆転の出世物語でもある。
しかし、実際においてはスポーツで金メダルと取るには凄まじい才能か、
幼少の頃からの教育環境である。
もしくはその両方いる。
所詮は才能と家柄である。
努力だけで取れる物ではない。
そう考えると、五輪とは一部の選ばれたエリート・天才を称えるイベントなのではないか?
世界平和の美名の元にナチスばりの優生学の論理があるのではないか?

生まれつきのエリートは素晴らしい
生まれつきの凡人には手が届かない人間は素晴らしい
世界には優れた人間と劣った人間が居る

これが五輪の正体ではないだろうか?

まあ、実際は世界各国の相互協力による平和親善が五輪の真相なのだろうが、
このような考えも可能ではある。
要するに、五輪はナチス思想の祭典であると。
ナチスドイツとは五輪の発生は関係ないだろうが、どうせ当時の白人は人種差別の塊である。
可能性は無くは無い。

しかし、このような結論を得た所でどうなるものでもない。
元々、選ばれたエリートしか幸せになれない世界では大多数の敗者が出る。
敗北に意味を見出すのは宗教であり、アヘンである。

無理やり個人に応用するとしたら、所詮、ニッチ戦略くらいしか無い。
ナンバーワンにもオンリーワンにもなれない我々個人は、ニッチな分野で、
金メダルをとるしかないのである。
極論を言えば、世界で自分しか参加していない分野で金メダルをとるのである。
これを言ったもの勝ちという。

組織の中でもこれを使うとしたら、やはり他がやっていないアピール方法でしかない。
これはマーケティングの分野であろう。

我が国に応用するとどうだろうか?
やはり、他国にない我が国独自のものでアピールするしかない。
それは歴史のある文化的なものでなくてよい。
例えば、大会の後にゴミを回収すると言ったレベルでよいのだ。
無論、これは深い文化的背景に根源が認められるものかも知れないが。



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古典を読む_【孫子】_B謀攻篇_01

2015/08/31 23:13
孫子曰く、
およそ兵を用うるの法は、国を全うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ。
軍を全うするを上となし、軍を破るはこれに次ぐ。
旅を全うするを上となし、旅を破るはこれに次ぐ。
卒を全うするを上となし、卒を破るはこれに次ぐ。
伍を全うするを上となし、伍を破るはこれに次ぐ。
このゆえに、百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。
戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。

【本質】

戦わずして勝つのが最上である。

孫子は戦争のコストというものが国家にいかに損害を与えるか知っている人間である。
その意味でいうと、将軍ではく国家運営の君子である。

戦争の長期化は国家を疲弊させやがて破滅に陥る。
大日本帝国という例を我々は前世紀に体験したばかりである。
戦争はしない方がよい。

ただし、当然ながらこれは、ただの平和主義者のセリフではなく、
「戦争をしないほうが国家にとって得だから」
というだけのことでもある。
逆に言えば、戦争するメリットがあれば戦争を実施するのだ。

また、戦争しなければいけない時にしないのは、国家が逆に滅びることになる。
古来より、「孫子は使えない」というのは、謀略の話ばかりで戦争という実力行使をしないため、決戦が出来ずに逆に国家にとって損になるからだ。

また、困ったことに、戦争によって利を得る立場の人間というのはいつの時代でもいるものである。
それは、単に戦争屋のような軍産複合体ということではなく、個人レベルでも戦争によって利を得ることが出来る人間がいるということである。

当たり前だが、英雄というものは平時には存在しない。
悪役がいてそれを成敗することにより、大衆の喝采を浴びる。
それは平時では不可能であり、乱世しか通用しない出世術である。

また民草というものは勝手なもので、戦時には被害者面するくせに、平時に格差などの社会的不平等をガラガラポンするために、戦争を求める。
しかも、それによって実際に利を得る者もまた存在するものである。
先の大戦後に、GHQと組ことによって、戦後成金に成った者を見よ。
GHQの農地解放によって、大地主の小作人だった農奴が一夜にして、土地持ちになった例を見よ。

大多数の死者の上に咲く徒花は何時の時代でも存在するものである。





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古典を読む_【孫子】_A作戦篇_05

2015/01/20 00:30
故に兵は勝つを貴びて久しきを貴ばず。
故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり。

戦争は勝利が絶対条件である。が、長期戦を望まない。
この道理を弁えた指導者こそが、国家の宝である。



【本質】
作戦篇はこれで終わりであるが、今の日本語の作戦とはだいぶ意味が違うことがわかる。
長期戦や糧秣やらと言った戦略よりも上位の大戦略や国家戦略の話である。

計篇で戦争をするかしないか考察し、作戦篇でそのスケジュールを立てている。
当然、ここには撤退という終わりも考える必要がある。
およそ戦争であっても個人の投資であっても、「見切り千両」という言葉が重要である。
すでに終わった物に執着して投資しても意味が無い。
大日本帝国も、ここで引いたら今までの犠牲者がという思考パターンで、惨禍を招いた。

執着は、人間の粘りや根性や持続力や迫力などに繋がる重要な項目であるが、所詮は方向性のあるエネルギーというだけであり、それが正しい方向かどうかは別である。
目が見えなくなれば崖に落ちるのみである。
強靭なエネルギーを統御する御者がいてこそ、始めて世界も人生も謳歌出来るというものである。

この孫子の作戦篇は先の大戦で敗退を期した日本に、大きな示唆を与えてくれる。

見切り千両が出来ない国や個人は、滅びる。

これが教訓である。


逆に言えば、国や個人を滅ぼそうとすれば見切り千両を出来なくすればよい。
わざと戦争を長引かせて国力を消耗させる手段は、古来よりよく使われてきた。
この手法は今後も、人類の中で使われてくるだろう。
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